石見銀山が世界歴史遺産に登録された理由

貴金属,相場関連

石見銀山の歴史的な背景

石見銀山がユネスコの世界文化遺産に認定されたとき、「国内ではそれほど注目されていないのに、なぜ登録されたのか?」と疑問に感じた方も多かったのではありませんか。

今回は、その説明をしていきましょう。

石見銀山がある島根県大田市のマスコット、らとちゃん

石見銀山は島根県大田市にあり、14世紀初頭に発見されました。

本格的な開発は、江戸時代初期の17世紀初頭になります。

江戸時代の貨幣には藩札などがありましたが、金貨や銀貨といった硬貨もありました。

このうち金貨は江戸で多く流通し、大坂では銀貨が多く流通していたことはよく知られています。

江戸では佐渡金山、大坂では石見銀山との関係性とリンクして考えることができます。

欧米の金銀事情

旧ローデシアの切手に描かれた鉱山での掘削

アメリカで金がドルと同一視されているのは、昔、ドル制度が金に裏打ちされていたため、ドルを持つことと金を持つことは同じという認識が根底にあるからです。

ヨーロッパでは相次ぐ戦乱で政府の消滅が頻発し、その度ごとに貨幣も無価値になることから、金が隠し財産として多く資産化されていました。

一方でアメリカが銀社会なのは、南米の現在のメキシコなどに多くの銀山があり、現代でも世界有数の銀生産国であることも要因の一つです。

逆にヨーロッパは、アフリカのローデシア(現在のジンバブエ付近)、南アフリカなど、金の主要産地をイギリスが植民地化したことが土台にあります。

ヨーロッパに石見銀山が知られたころのこと

メキシコ有数の鉱山都市として発展したサカテカス

石見銀山が注目されたのは、ちょうどイギリスの東インド会社が、世界進出を果たしているような状況です。

当時のイギリスはアメリカ大陸を発見し、植民化政策を進めていました。

その前からスペイン、ポルトガルなどは南米メキシコや西インド諸島などを植民化しています。

この目的は主に砂糖•粗糖需要の増大で、現在でもキューバのさとうきび生産などが残っています。

この際、決済のお金がない場合にはメキシコの銀山から銀を算出して充てていました。

当時、イギリスで産業革命、つまり工場での大量生産が勃興し、ヨーロッパ諸国もそれにならい、産業革命を開始した時期になり、同時に世界的に供給が拡大したという背景があります。

昔ながらの手作りでは供給に限りがありますが、産業革命が起これば一気に生産が拡大し、決済用のお金が必要になってきます。

しかし、昔ながらのハンドメイドを支える貨幣量しかなかったので、大量の需要が発生したのです。

そこでスペイン領であったメキシコの銀を貨幣にすればよいという発想になりました。

石見銀山がヨーロッパに注目された理由

マレーシアのペナン島中心部、ジョージタウンにあるイギリス東インド会社の要塞であるコーンウォリス要塞跡

産業革命の勃興により、イギリスの国力が従前のオランダやスペイン、ポルトガルを抜いて一気に飛躍しました。

特に東南アジアではペナンの香辛料などが有名で、後に綿織物の輸入が活発になります。

当時、イギリスの絹織物は東南アジア•中国にはひどく不評で全く売れませんでした。

大量の綿織物がイギリスに輸入されましたが、逆にイギリス製品は東南アジア、インド、中国には受け入れられず、イギリスは現代で言う大幅な貿易赤字に陥ったのです。

アメリカとの貿易では、イギリス製品を売りつけることができましたが、アジア地域では需要がなく、結果としてアメリカとの交易で得た外貨、つまり銀貨をアジアに流出させることになります。

しかし、産業革命は大量生産を可能にするのですから、アジアとの交易は綿製品を入手するのには必要でした。

つまり、アジア地域でも銀山が必要になります。

そこで注目されたのが、日本の石見銀山だったのです。

綿とアヘンと石見銀山

中国のアヘン窟を描いた古い絵

石見銀山が開発された1600年代初頭、江戸幕府はまだ鎖国令を発令していません。

自由な交易が許された時代です。

そのときに中国、朝鮮から画期的な精錬技術である灰吹法が輸入され、石見銀山にも導入されたことから、飛躍的に生産量が上昇しました。

つまり長崎、平戸にてオランダ商人が活発に商品を納入し、逆に銀を大量に手に入れていたのです。

お隣の中国にも銀山はありましたが、その時は既に鎖国をしていた時代で入手が困難でした。

そこで植民政策後発組のイギリスは、東南アジアで採取したアヘンを中国に売ることによって大量の銀を手に入れました。

それが後々アヘン戦争につながっていくことは、皆さんご存知の通りでしょう。

オランダ商人が日本で手に入れた銀を中国で使い、中国がアヘンを入手するためにその銀を使うことで、最終的にイギリスが銀を手に入れるという構図が出来上がりました。

そしてイギリスは、その銀を元手に綿製品を購入したのです。

現在では当たり前のように行われている三角貿易は、16世紀には成立していたことになります。

石見銀山の世界史的な意義

江戸時代に例外的に対外貿易が許されていた出島を描いた長崎市のマンホール

産業革命と言うと、工場での大量生産が可能になったことばかりが注目され、その売買を支える貨幣も極端な供給不足になることを忘れがちです。

いくら産業革命が成立したとしても、売買を支える貨幣がなくては社会が成立しません。

従前では、メキシコがその貨幣の最大の供給源であることが学説の主流でしたが、1970年代から2000年の前半までに、アジア地域での産業革命の影響を調べることが学会で話題になり、やはり貨幣の問題が起こりました。

産業革命時も鎖国をしていた日本人にはなかなか理解できないことですが、産業革命の伝播はヨーロッパの歴史学者にとっては非常に重要であり、特に1970年代に大論争になっていたのです。

この貨幣論争に決着がついたのが、2000年前半です。

上述の通りオランダが長崎、平戸を通じて大量の銀を獲得し、その銀が回り回ってイギリスの産業革命を支えたことになります。

論争に終止符を打ったのが石見銀山であり、その結果として2007年にユネスコ世界文化遺産に認定されたのです。

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